集中の法則

心地よい眠りから目を覚ますと、映画館から出てきた瞬間を思い出す。
太陽の光は映像の光よりも強烈だということを思い知らされる。
夢の中は所詮、自分が作り出した人工物であり、自然の光にはかなわない。
生きているだけで素晴らしいんだ、ということを心地よい眠りから覚めた瞬間が教えてくれる。





今日はニューヨーク最後の夜なので、地下鉄の壁という壁にひたすら落書きをしているキャップを深くかぶった17歳の思春期まっただなかの黒人のように、ただただ自分の中に自然と出てくるうみなのか、こぶなのかを潰すために言葉を出し続ける。




セントラルパーク。
鉄骨でできた林に囲まれた木でできた柱。
健康を求めているのか、これだけエクササイズしている自分に酔いながら周りの視線を集めようとしているのか、それとも他になにかあるのかしらないけど、走ったり自転車をこいでる人たちが多い。
芝生で寝転ぶ場所に、2時間ばかり背中を地面にくっつけてきた。
公園を見ていると、いかに森や海が人間にとって必要なのかがわかる。
その自然を再現するために公園がある。
裏切らない完璧な自然は自然ではないが、それでも美しい。
なぜなら、そこには人と自然の命が融合されているから。
どちらが主役でもない。
誰も主役ではない。
誰も干渉しない。
誰も死んでいない。




ジョンレノンをしのぶ場所は人だかりになっていて、僕がジョンレノンなら静かにしてくれないかなと思うだろうななんて思いながら素通りした。人だかりの中心がどうなっているかなんて、どうでもいい。
それはなんだかリアルではない。





高校の教室で、いかにもな教師に嫌がらせで全否定される夢を見た。
起きた時には叫んでいたかもしれない。
それだけ僕の身体はうずいているのだろうか?
そして、やっぱり人から認められたい存在なんだ。
人がいて、はじめて僕がいる。





そんな悔しい思いをしたまま目が覚めたのは朝5時。
ニューヨークでの睡眠時間は、ウォール街のビジネスマンのように短い。
彼らのように働くことは、できないだろう。
金の亡者ではないから。





そういえばハーレムに行ってきた。
ニューヨークの中心はマンハッタン島。
その島の最北端にハーレムはある。
ハーレム1のメイン通りと、その周辺を歩いた。
今まで見てきたニューヨークよりも、イメージしていたニューヨークだった。
黒人しかいなくて、観光客もほぼゼロに等しい。
道路沿いに停めてある車から、大音量でヒップホップがかかり彼らは縦に身体を揺らす。
貧困と差別、反逆精神。
疎外感。
大通りから一本入ると、身体がヤバイと反応するリアル。
ここで生まれたヒップホップを、ここで聴いて初めてよくわかった。
10年以上前、ロスに音楽を聴きに行った。
この時も、地下鉄に乗ってコンプトンやロングビーチで、やばい感じを味わった。
どちらも身体に溜まっているエネルギーを発散させるために、ヒップホップがある。
メッセージなんかよりも、どこにも出せなくてストレスになっているものを燃焼させるために、言葉とリズムを使う。ロスよりも土っぽく重く感じるのは、気候のせいだろうか。
芸術という見方の音楽では、ヒップホップはたいしたことない。
僕もヒップホップを聴かなくなってきている。
それでも、僕のルーツはヒップホップだと実感したし納得した。
彼らには音楽以外には何もない。




ソウルフードを食べた。
多分、南部料理だと思う。
42stで山根さんと待ち合わせして、スタバで店を決めて、地下鉄に乗り込んだ。
ハーレムの、貧困なだけで安全なほうのエリアに着く。
日が落ちて、暗くなっていると黒人は見えない。
これは本当です。黒い服なんか着ていたら、車に轢かれちゃうだろうな。
「この周辺とは違い、こぎれいな店」と書いてあった店は、たしかにそのとおりだった。
店内は観光客と、地元の品のある黒人の半々。
ソウルフードとしては高級店だからかもしれないけど、ソウルフードは美味しいです。
なにもかもが柔らかい。黒人は、噛むの好きじゃないのかな〜?
量は多くて2人で1人前で足ります。
豆とトマトとひき肉の入った辛くないチリスープが絶品でした。






他のどの街とも、大きく違うニューヨークは魅力がある。
そして、ここに住むイメージがわく。
ここまでビビッと来た街はない。
住みたい街はある。しかし、住んだ方がいいなと思う街はあまりない。
自分を鍛える場、大きくさせる場として魅力を感じる。
自己主張の塊の街に集まる、世界中から集まる自己主張の塊の人たちを相手にしてみたい。
ただのブランドとしてでもなく、英語を勉強するためとかでもなく、グローバルでやりたいとかでもなく、自分の生命力を思う存分吐き出すために。だからウォール街というより、ハーレムに近い。少し危険でピリピリするほうが、自分が生きている感じがしていい。しかも、日本というセーフティーボックスの中ではドロドロとした道を歩んできた僕の身体は、残念ながらそっちのほうが嫌いなのに性にあう。
何をするかは考えていない。
その時が来れば、何かしら動いて、何かあるだろう。
なにもなければ、縁がなかったということだし。
何かの目的のために、無理やり身体を動かすのは好きではない。
身体が勝手に動く先に目的がある。
目的を目の前に掲げておけば、飯を食って歯磨きをすることまで、そのために身体は勝手にしている。



帰ったときにどう感じるかはわからないけど、東京もやっぱりそんな街なのかもしれない。
先のことなんか、どうなるなんてわからない。



今のことさえもわからない。
過去のことしか知らない。





いつ死ぬかわからない。
現実でも小説やドラマや映画でも、人はあっけなく死んでいる。
あっけなくではない死のほうが珍しいから、トピックスになる。
死も日常だ。
日常の中で死ぬ事を考えれば、生命力は最大限発揮する。
そして輝く。





集中して何かに打ち込む方法は、ただ1つ。
自分の生命力をフルに使えばいい。
身体と心のコンディションを最高に近づける。
人によって様々だろうが、僕は最低でも4時間は寝る。
そして、目的を常に目の前に掲げる。
それだけ。





価値観は人それぞれ。
自分にとって一番の価値観を探すために、貪欲になる。
僕はこういう考えなんだ、で終らせない。
そこが終わりになってしまう。





金を失っても、プライドを失っても、自信を失っても、命を失うよりはまし。
金を減らすよりも、プライドを減らすよりも、自身を減らすよりも、なによりも命を減らしたくはない。
半分しか生きていない状態にはしたくない。
生きている素晴らしさをフルに味わいたい。
金を失っても生きている。
かといって貧乏でもいいとは思っていない。
でも命を大きくするために、貧乏になるかもしれなくても前に出る。
そんな自分でいたい。
何かを失うことなんか、仕方がない。
生きながら命を失った人、半分しかない人。
それなら、まだ命を失わないために死んだ方がいい。

死なないけどね。



ついに出発です。
遠足の前の気分です。
楽しんできます。