何のため

真剣に考えてみる。
僕は、なんのために生きているのか?
別に死にたくなったわけじゃありません。
ただ、あとで説明しますが、だったら死んでみるか!みたいなところあります。



キャパがあまりに狭すぎて、昔々の親が作ってくれていた弁当みたいに身動きが取れない。いつも、ご飯はギューギューで重みがあった。ハムの入っている玉子焼きと、ほうれん草のソテーがあればそれで良かった。いつも、10時半くらいには食い終わっていた。あるいは、朝家を出てしばらくすると食べ終わっていた。あるいは、寝ているはずの兄貴が寝ぼけながら食っていて、しかもそれを忘れているハプニングもあった。ほうれん草のソテーの汁が、ご飯にいつも浸水していた。端っこだけ、ご飯の色が変わっていた。なんで急に思い出したんだろう。
多分、死ぬのが自分より先だと思うと耐えられるか、今日不安になったからだろう。それにより、僕はストレスを感じた。



僕は、今間違いなく周りの人の死は受け入れることができないだろう。他人ならいいのかってなっちゃうんだけど、身近な死を受け入れて流せる自信が無い。それに耐えられなくて、だったら自分が死ぬかみたいな安易な考えになる。誰かが死にそうになったら、自分が先に死ぬみたいな。もちろん、これは真実でも軸でもありません。ただ、死がこんなにも意識の中にいるだけです。別に死にそうもないし、むしろピンピンしております。


自分が何に恐れているのかもわからない。
ただ、「何のために生きているのか」を考えていると、表裏の死を考えてしまう。なんで死にたくないと思うんだろう。本能かな?でも、生物みながガツガツ生きようとしたら、みな進化して、それこそ生きる場を争って、死にあうのに。人だけが平然と殺戮をおこなう。そういえば、サルやチンパンジーも戦争に近いものをして共食いをすると聞いたことがある。共食いってどういうことなんだろう?人の戦争と同じなのかな?戦うとは、究極殺傷することなのだろうか?ちょっとずれてきたので修正。



自分の生きている意味なんてないのかもしれない。
生きちゃってるし、生かされてるんだと思う。
でも、このままでいいのかな?
死ぬ前にしたいことは、これで全部なのかな?
死ぬ前にしたいことを今してるのか?あるいはそれに向かっているのか?
僕が、やりたいことは本当になんだろうとと、それこそ死にそうになるくらいまで考えなきゃいけない。そこから離れることは簡単だけど、楽だろうけど、生きている度は下がる。楽したり、楽しい時は、死の意識が消える。時間の経過を感じないときも、死から開放される。何かに集中することや、打ち込むこと、趣味なんかは死の意識から開放されるためにしてるのかもしれない。打ち込んで打ち込んで、勝負することで、死について忘れてしまう。
そんな仮説を立ててみただけで、僕がうつなわけじゃありません。



やってみなきゃ、わからないことのほうが多い。
とりあえず、やってみて痛い目見てはじめて気付く。
それでいいじゃん。リスクってなに?
リスクなんか恐れていたら、僕みたいな人は生きれない。
僕自身がリスクの塊なんだもん。
自分という商品は、ハイリスクハイリターンでいいと思う。
やばい人に思われようが、暗い人に思われようが、いろんな刺激のためにとことん楽しいことも悲しいことも考えた方がいいだけ。



人生を楽しもうとすればするほど、悲しいことも同じくらい多くなる。
感度が上がれば、昨日より楽しめるけど昨日より悲しい。
それをしょうがないと思うか、嫌と思うか?



誰がどうであったって僕には関係ない。
それによって、僕の死に方が変わるわけじゃない。
僕は、結構感情が尖ってます。
誰と比較してじゃないんで、どんどん尖ってきてます。今がどのくらい尖ってるかはわかりません。ただ前には進んでます。



昨日より、今日より一歩でも前に出ます。
面倒くさいと思ってやめるか、前に出るかは僕次第。