危険な感覚

またしても、違う人からメールでアドバイス貰いました。
俺らしいけど、俺らしくないとか、
よくわかりませんでしたが、少し軌道修正を求められました。



そんなアドバイスもらったのに、こんなこと書くのも引いちゃいますが・・・。
思い切って書いちゃいましょう!
いつもこんなこと考えてるわけじゃないし。
ただ、対極としてこんな考えもあるしな、という程度です。



それは、「死」についてです。
死ぬことを意識しながら、生きてる。
素晴らしい光景や瞬間、感動に出会うと泣きそうになる。
もちろん、目の前の状況に対して身体が無意識に反応して、その無意識に反応した身体を意識して、感情が生まれる。
とてもわかりづらいかもしれないけど、状況に対して、すぐに感情があるわけじゃなくて、一旦肉体が反応(鼓動や汗、震えなども含めて)し、それに反応した脳が意識的に考え分析して感情になるんだと思う。自分で書いてても、こんがらがるけどね。


でもそれだけじゃなくて、僕の場合、死んだら二度と出会えないという思いも重なり、更に泣きそうになる。そして、そのことで生きてることの幸せを感じ、もっともっと泣きそうになる。何度も言うが、涙は出ない。
涙は出ないが、女の子とたちが流す涙とは別のもの。
鳥肌が全身を覆い、しゃべれなくなる。


今日、僕にはこんな出来事があった。
文章を間違えた。訂正
今日、僕はこんな出来事に遭遇した。
朝の「心と魂がバラバラな状態での会議」が終わった後、半蔵門線に乗ろうとした。
車内に入ろうとしたら、子供の大きな泣き声。どうやら手が何かに挟まってる様子。
駅員が大量に押しかけては、また走り去り、また戻ってきて。
駅員は10人以上いる。
僕のできることは、なにもない。
本当に無いのか確認したかったので、車内に入る。
子供のお父さんが、電車を止めてしまったことに対してだろうがテンパッてたので、
「大丈夫ですよ」「別に休日だし、ラッシュでもないし誰も気にしませんよ」って声かけた。子供は、手すりに手を挟まったようで、手すりはネジで止められてるから、外れるのは時間の問題だった。
僕は、自分のやるべきことはやったので、その場から少し離れた。
なぜなら、野次馬になるのは嫌だから。
離れて感じたが、車内では、僕には信じられない光景が映っていた。
挟まった子供の家族以外は、何も起きていないかのような状況だったからだ。
ヘッドホンで音楽を聴く若い女性。本を読んでるオッサン。いちゃつくまでとはいかずとも、二人の世界で喋り捲ってるバカップル。
僕は振り返り、もう一度車内に乗り込んで、そこにいる者達を殴りこむ自分をイメージしたが、抑制した。捕まるのが嫌だという理由だけで。
僕は、その瞬間に人間ではなくなった。
正常者と呼ばれる異常者になった。
この制度の世界では、本来は正常な行為が悪となる。道徳や法律や世間とよばれるものによって。僕には、その場から離れることしか選択肢として残っていなかった。



僕が、その場にいれなかった理由はもう一つある。
それは恐怖である。
挟まってる様子は見えてないが、家族のパニック状態を見ていて「死」を近くに感じた。少しでも、死に近づいてる空気に恐怖を感じた。
その子供に、本当に死が近づいてるのなら、僕は何もできずに何かしただろうが・・・。挟んでるだけで、現実的にはなんでもないわけだけど。
普段、死を意識していたとしても、所詮こんなもんです。
死に対する準備は全く取れていない。



その子供と家族が、車内から出てきた瞬間だけは胸がこみ上げた。大袈裟キングですいません。多分、彼らのパニック状態から感じ取った「死」が遠ざかったことが、自分の胸をこみ上げたのかもしれない。さらに、生きてることの実感をすることができ、そうなったのかもしれない。



家族は、逃げるようにホームから去った。残念だった。意味無く走り回ってた駅員がほとんどだろうが、その人たちに感謝の気持ちと、お詫びの気持ちよりも、恥をとっちゃうのかと。僕は、また殴りたい感覚に陥った自分の気持ちを抑えて、また正常者と呼ばれる異常者になった。


僕の感覚は、本当は正常ではなくて異常なのかな。
何も気にならない人たち(気付く事を拒否する人たち)のほうが、感覚としても正常なのか?



これは、決して半蔵門線だけの話ではない。
仕事でもそうだ。
どんなにふざけた辞めかたをした社員にも、僕は未だに愛を持ってる。
接する社員達のことも、家族のように接する。そして、何よりもその人たちの未来を優先する。幸せになってもらいたいし、豊かな人生を送ってもらいたいし、損してほしくないし、人から嫌われる人生を送ってもらいたくないし、成長して欲しいから、僕は自分の感覚で接する。それは、その人たちから見ると異常のようだ。
利益を出すのにも、その人たちの成長はもちろんだが、周りから見ると異常者に見えるようだ。僕の思いや、考えは異常なのか?
そして、普通の人(何が基準かわからないが、それ以上に言葉が見つからないので)には自分は50%でぶつかるべきなのか。



僕は、最大限のことをしたい。そして最大限の刺激を受けたいし与えたい。しかし、その刺激が、僕の愛する人たちの定義する幸せにつながらないのなら、よしたほうがいい。自分の思い通りにできないことに、イライラする。
少し否定されるだけで、なぜそうなる。
なぜ自分を完璧な人と思って接する?
僕は、否定的な意見をたくさん聞きたい。むしろしかってもらいたい。
本気で誰かに僕のためを思って、言って欲しい。
僕は逆に、言ってるつもりだけど、それは余計なことなのか。
傷つけることは悪なのか?



だいぶ頭がすっきりした。
8月は、全員に対してのマネジメントをテーマとしていたが、あまりに温度が違うので方向を変えていこう。まずは、自分のマネジメントを徹底してからにします。



僕はそんなに強くない。
利益がいってないことは、心をだめにしないのに、少し人から否定されたりしただけでこんなになる。それだけ、愛を持ってるんだけど、まるで中学生みたいです。
所詮、僕なんて制度の世界から抜ければ、ただの子供です。
だから甘えたいし、寂しいし、依存したくなるんでしょう。
制度の世界で徹底して締め付けてるから、そこから離れたら徹底的に甘えたい。
そんなことを今は考えてました。
長い。